68回生諸君、成人式おめでとう!

カテゴリー │28回生room(S51.3卒)


68回生の皆さん「成人式」おめでとうございます。
同窓会編集部、28回生の酒出です。
前記の新聞記事の切り抜きは40年前の昭和58年1月15日のものです。
当時は1月15日が成人式の祝日と決まっていました。
年々成人式が華美になり、自制を求められる内容と、私の出身地である
山間部の過疎化に伴う、正月帰省の成人式開催の内容が掲載されています。
この記事の下には10名の県内の成人の豊富が掲載されています。
実はここに二十歳の私が、抱負を語っています。

しかしながら私がこの新聞記事を目にしたのは、4年前の事です。
母が他界し、遺品整理をしていた中から見つけたものです。

高校卒業後、自衛隊に入隊し2年目の時期です。
この当時は土曜日が半日勤務(半ドン)でしたので、翌日に迎えた
成人式を前に昼食を済ませ出掛けよとしていた時の事です。
数日続いていた地震の本震が発生しました。外出は禁止され
非常呼集命令が発令されました。 伊豆方面で被害が出ました。
自衛隊では偵察隊に所属していましたので準備に取り掛かります。
15時に災害派遣命令発令、通信 隊と共に直ちに出動、本隊が17時に
出動する前に現地を確認します。

冬季です。河津町に到着した時には周囲は闇夜に包まれていました。
河津中学校が宿泊場所に指定されました。
体育館には翌日の成人式の準備が整っていました。
「そうだ、明日は自分も成人式に出るはずだった・・・」

伊豆大島近海地震 Mj7 死者23名 行方不明者2名

2週間に渡り要救助者を探すと、云う初めての経験でした。

新聞記事を読み返すと、当時の事を思い出しました。
12月中旬新聞社の取材があり、両親に伝えました。
私の出身は龍山村ですので、同級生が正月に成人式を行った事は
聴い ていました。自衛隊勤務は御殿場でしたので、翌日には
御殿場市の成人式に出席する予定でした。
記事の中にある河津町の成人式、確かに会場は質素なものでした。

実は40年間 河津町を訪れた事は一度もありません。
阪神淡路大震災の時は一週間後には支援物資を車に載せて現地入りしました。
東北の震災の時も岩手の友人2人を乗せて、現地入りし親戚を訪ねるなど、
自然災害に対して、自分なりに対応しています。
しかし、河津には行けない・・・ トラウマになのでしょうか?
稲取までは行きました。天城峠までは行きました。 西伊豆から下田までは
行きました。 河津へは行けません。

高校の同窓 会の広報活動を行っています。
剣道部で活躍する生徒が河津町出身と聞いた時、何か心の中に・・・

新聞記事を見つけて4年間、この切り抜きを見て不思議な気持ちでいました。
丁度40年 60歳になりました。

皆さんの成人式は、いかがでしたか?


     

    制服の胸のここには

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    3月1日の卒業式の前日、卒業生を同窓会に迎える「第64回同窓会
    入会式」の取材として大橋同窓会長、本沢、久米副会長のお供をし
    て浜名高校に行きました。

    時間が来て第一体育館に向えば、卒業を迎える生徒たちの列の中、
    どの生徒も私たちを見ては列を開け、「こんにちは!」と大きな声で
    挨拶をしてくれました。

    卒業して30数年、再び訪れた母校は校舎こそ当時とは違えど、挨拶
    ではじまる校風をそのまま残していたものでした。

    行く道が定まり、明日は別れゆく友と明日は卒業式となる時の気持ちを
    を思い出したものでした。

    今も昔も卒業の頃となると「卒業ソング」が流行します。
    全国の卒業生の誰もが共感できるその歌を自分たちの主題歌のよう
    に思って口ずさんだものでした。

    ちょうど私たちの頃は太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」が流行
    していました。

    大学生として専門学校生として、就職で東京へ向うことが多かった当時、
    もちろん送ってくれる恋人などはいなかったのだけれど、歌のように私た
    ちは「東へと向う列車」に乗ったものでした。

    今は昔、今年創立100周年を迎える母校浜名高校を同窓生が祝う大同
    窓会の実行委員のひとりとなり、またあの頃のようなトキメキの中にいま
    す。
    制服も変ってしまいましたが、生徒たちの中に自分がいるような気持ち
    になるのです。

    制服の胸のどこかでときめかせていた浜名高校生がまた蘇り、母校の
    ために母校の仲間たちと9月8日の開催までを過ごそう、目指そうと思う
    のです。


     

    コーラ一気飲みの放課後

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    昭和50年頃の浜名高校の放課後、しっかり部活をしてもしなくて
    も、高校生の喉は乾きます。早弁の上に購買のパンを買って食べ
    ても腹はペコペコです。

    当時は校舎の北側にグラウンドがあり、小林駅へ向かう電車通学
    生は校庭から北の門に出ます。その門の隣にお菓子屋さんがあり
    ました。(地図でみると現在もあります。「藤屋菓子店」です)

    お店の前にはコーラやファンタが入った自販機がありました。
    ペットボトル以前の時代、全て瓶に入った炭酸飲料の自販機です。

    そこでコーラを一気飲み、ファンタを一気飲み、確かもっと大き
    なサイズ(500mlでしょうか)のジュースも一気飲みしていました。

    もちろん自販機には瓶の王冠を開けるオープナーがついていまし
    たよ。「パシュッ」と音をさせて開けるのも待てないほど喉を乾
    かしていたことを覚えています。

    お菓子屋さんの奥では確かインスタントラーメンを食べさせてく
    れていた。近隣に大きなお店がなかった当時、浜名高校生の放課
    後のちょっとしたたまり場だったのでした。

    サッカー部の活躍するグラウンドを眺めながら小林駅へ向かい、
    炭酸の「ゲップ」をして歩いていたことを思い出しました。

    28回生 イチロー


     

    閑話休題甘いもの 二俣大判屋

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    浜名高校大同窓会を成功させよう!と先週土曜日は事務局長の酒
    出さんと短時間でしたが先輩を訪ねる旅に出た。

    既に紹介の大村先輩は天竜区の山東でGSを経営されている、西鹿
    島から二俣に至り、クローバー商店街に入れば立ち寄る店があるの
    です。

    「大判屋」さんです。

    浜北・天竜にも多い浜名高校同窓生ならばきっとご存知のこのお店
    の大判焼きの大きさときたら、写真のとおり!
    普通の大判焼の二倍ほどもあるのです。

    「おーばちゃーん大判焼二個ね!」とお願いすると「お茶出してあ
    げるから店で食べていきなさい」と優しい言葉。

    お好み焼やソバ飯などの名店であり、夏はデカかき氷の店として知
    られる大判屋さんのテーブルでいただきます。



    なんと焼いているのは美人のお姉さんとやさしいお母さんたち。
    この写真でもわかるとおり、これでまだ半分、これをひっくり返し
    てまた一段乗っかるのが大判屋の大判焼きなのです。

    「よっ!三姉妹!」などと笑いながらいただきました。



    昔ながらのお店の佇まいはいつ行っても同じが安心です。
    甘いあまい大判焼をいただいて先輩を訪ねる旅は続いたのであり
    ました。

    誰か今度はお好み焼き食べに行こうね!

    28回生 イチロー


     

    浜名高校制服とバッジ

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    ※写真は制服のキンパラより

    浜名高校の校章は波頭がぐるりと丸くなったもの、このバッジは
    学帽にもつけ、また小さな校章を詰襟の学生服にもつけていまし
    た。

    女子の制服は(現在は変わったようですが)プリーツが少ないス
    カートに合服ではベスト、冬は上着がありました。
    当時の私たちには「まるで事務服のようだ」と評判の悪いもので
    した。

    今では少なくなってしまいましたが、高校生の女子はセーラー服
    が一番人気、浜名高校の「いかさない事務服のような」制服では
    ありません。
    浜松市立は三本線のセーラー服、黄色い線は西遠女子学園、星の
    マークが女子商業とセーラー服が並ぶ中に浜名高校生は、ちょっ
    とねという制服を着けていました。

    当時の浜北市と近隣には浜名高校と天竜林業、二俣高校などしか
    ありませんから浜北にいるうちはかまいませんが、浜松に戻れば
    まだまだ「浜名高校」は知られていません。

    「浜名高校って浜名湖の近く?」などと聞かれたこともありまし
    た。

    上級にあがれば男子は校章などつけなくなります。あまり幅がき
    かない浜名高校は現在のようにブランドを築く前の学校だったの
    です。


     

    クラブを決めるぞ

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    ※写真はイメージです。
    浜名高校に入学後、一年生は運動、文化のどれかのクラブに入学
    を決めなくてはなりません。
    確か一年生が体育館に集まり、先輩方からクラブへの入部を薦め
    られる会がありました。

    既にそれまでにも先輩たちが一年生の校舎に来たり、登下校時で
    あったりそれぞれ個人勧誘に着ます。
    中学校時代の先輩が訪ねてきたこともありました。

    中学校から取り組んだ同じ運動部に入部するなら簡単ですが、高
    校では違うことにもチャレンジしたいものです。
    中学時代にはなかったちょっと面白そうなクラブもあるのです。

    先輩たちが何人かづつ壇上でプレゼンをします。入部くださいと
    説明があったあと、何日かは自由にクラブを訪ねる日があります。
    そこで実際に先輩たちの活動を見学するのです。

    部室もあり、中学時代とは違います。確か北の校舎の昇降口から
    続く奥にズラリと部室が並んでいたことを覚えています。

    当時はまだ一年先輩とは相当の大人に見えていました。三年生は
    まるで私たちを子供扱いしていたとも思います。
    その先輩に強引に勧誘されて入部を決めるもの、断りつづける者、
    初志貫徹で高校時代の学びをクラブ活動に求めるものなどさまざ
    までした。

    プレゼンに女子がズラリにちょっとひきましたが、それでも高校
    時代は文化部で行こうと決めていた私は「新聞部」を選びます。
    部室は昇降口に近い畳敷きの部屋、そこのドアを開けると女子だ
    らけ、それでも三年生に男子がいてホッとしたことを覚えています。


     

    フォークソングな浜名高校

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    時はめぐり高校生だった私たちがすっかりオジサンやオヤジとな
    り、再びブームがやってきた「オヤジバンド」ブーム。

    物置や押入れに追いやられていたケースの埃をはらって、かつて
    の仲間とまたギターを弾いて楽しんでいる。
    もうあの頃から35年ほど経ちました。

    懐かしい写真が送られてきました。

    当時写真部に所属していた「アラキ」君が撮ってくれた写真は浜
    名高校の体育館のステージの上、どうして彼がこんなに高いとこ
    ろから撮ったのか、当時この写真をもらって「これってプロみた
    いじゃない?」って喜んだことを思い出しました。

    他校とも同じ、浜名高校も当時はロック派とフォーク派に分かれ
    てはおりましたが、練習しては学園祭のステージを目指した仲間
    が多くおりました。

    ご他聞に漏れず、「動機は不純なもの」でしたから、学園祭を目
    指して髪を伸ばしたり、何を着て出ようかと「ウケ」狙いばかり
    をしていたものでした。

    「当時何を歌ったんだっけ」、思い出せないのはやはり不純な理
    由だけでステージに立ち、女子の視線ばかり気にしていたのでし
    ょうね。

    長じて?今はこんな活動の中にいたりします。

    「動機が不純なのは今でもですか? いいえ誰でも」


     

    女子の方が多かった浜名高校

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    進学時には知りませんでしたが、昭和40年代後半の入学当時は
    浜名高校は、普通科、家政科、定時制がありました。

    普通科は6クラスあり、家政科は2クラスでしたが、家政科は女子
    だけですから、学年でも全学年でも浜名高校は女子の方が圧倒的
    に多い学校でした。
    中学では何組と呼んだ学級も高校ではホームルームと呼びました。

    各学年とも1から6ホームルームまでが普通科、7と8が家政科でし
    た。

    入部したクラブが「新聞部」でしたが、ここでは特に女子が多く、
    3年生に数人男子がいて、2年生が0、久々に数人の男子が入った
    新聞部でも部長も女子が担当していました。

    さらに2年に進級と共に普通科はクラス替えが行われます。(家
    政科は不明です)進学のために私たちの学年では1から3までが理
    系、4から6までが文系とされるのです。
    そこでまた女子のバランスが変わり、女子が少ない、多いクラス
    が生まれるという面白い現象が浜名高校にはありました。

    女子が多ければ私たち真面目な(嘘)男子は女子の勢いに負けて
    しまいます。
    一年男子は丸坊主の校則(拘束か)もあり、1年生の間は我慢の
    時期、2年生になってようやく男子デビューといった感じがして
    いたものでした。


     

    マラソン大会とキャラメル

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    今の浜名高校はどうなのでしょう。私たち28回生(S51.3卒)の
    頃の校内マラソン大会は浜北森林公園で行われていました。
    全ての生徒が確か直接、現地に集まりアップダウンの森林公園の
    コースを走るのです。

    直近駅の岩水寺駅から長い距離を森林公園まで歩いたように記憶
    しています。
    男子はあのコースを10キロ(であったか)走ります。女子はもう
    少し短かったように思います。
    冬枯れた森林公園には赤松がたくさん生えています。
    そのコースを喘ぎあえぎ走るのです。

    森林公園は岩水寺の奥にありますが、当時は岩水寺の裏に観光ホ
    テルがあり、その横には確か鍾乳洞があったと記憶しています。
    冷たく暗いその洞窟に入ったような気がします。

    面白いことに、コースを走りきるとゴールでキャラメルを貰えま
    す。高校生にキャラメルとは面白いご褒美でもありますが、それ
    を口に含みながらまた坂を降り、道を歩いて駅まで戻るのです。

    今でも時々懐かしく岩水寺を訪れたり、その園路を車で通りすぎ
    たりしますが、ホテルは閉鎖され鍾乳洞の口も確か塞がれていま
    す。

    確か三年生のマラソン大会では手作りの長い鉢巻をして走ったこ
    とを覚えています。必勝とか日の丸を描いて長い鉢巻を作って走
    ったのです。
    コースが短い女子が迎えるゴールに下級生の女子が待ち構えます。
    それで一所懸命走った覚えがあるのです。


     

    応援団の来る昼休み

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    浜名高校大同窓会の計画を始めるにあたり、事務局長の酒出さん
    (28回)から広報計画を仰せつかった。

    じつはかつては運営されていたはずの浜名高校同窓会のホームペ
    ージが閉じられてしまい、インターネットでの広報手段がないと
    いう。そこで準備として基本のコンテンツを集める計画をはじめ
    ました。
    そして彼が学校へ申し出ていただいてきたのが「校歌」と「応援
    歌」でした。(校歌はHPで公開中、応援歌は以後順次公開)

    一年生の当時、昼休みとなり弁当を食べ始めるととたんに教室の
    戸を明けて先輩たち「応援団」がなだれ込んできます。

    「弁当しまえぃ!」気合一発、一年生を震え上がらせます。

    野球部やサッカー部の応援のための応援歌の練習がはじまるのです。

    死語になりましたがバンカラな応援団は私たちを立たせ、手本の
    歌について大きな声で歌わせます。
    応援団の怖そうな先輩が机の間を歩き「声が小さいっ!」と気合
    を入れて歩きます。

    そんなことが続くから昼休みの弁当食べは大急ぎとなります。
    (次第に早弁をするようにもなります)

    浜名高校にはじつに第一から第五までの応援歌があり、さらに
    「若い力」と「校歌」が加わります。スパルタで新しい歌を覚え
    た一年生は実際の応援の大きな力となるのです。

    やがてこの応援団も募集があり、我が友もこれに応募します。
    何がよいのかと思いましたが、以後彼はちょっと強面(こわもて)
    になるのです。


     

    文化祭での出会い フォークソング

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    入学してまもなく文化祭の準備が始まります。まだクラブ活動と
    いうほどでもなく、クラスもまとまっていない中、初めての文化
    祭は楽しみなものです。
    高校生活は毎日が新しい発見がある頃、学園祭に他校へ行った同
    窓生を呼ぼうとかの計画もはじめます。

    学園祭は学内だけでなく他高生を呼ぶ楽しみがあります。その中
    で体育館のステージで演奏があることを知るのです。

    中学時代はラジオでレコードでの洋楽POPSの虜だった1年生は生
    のステージなどほとんど見たことはありません。
    そして学園祭のステージで初めて先輩たちがギターを弾いて歌う
    のを経験するのです。

    3年生のバンドは「BEATLES」のNOWWHERE MANを歌います。
    フォークギターを抱えた先輩が吉田拓郎を歌います。
    貧弱なマイク装置やアンプですが、生の演奏と歌を見て興奮しま
    す。中学時代の清掃時間にホウキを抱えて真似をするのとは違う
    のです。

    とたんに何もかも一年生はこれに夢中になる。
    一緒に見に行った剣道部の同級生二人とあれこれ相談をはじめる。
    学校では禁止されていたアルバイトの先を探し、ギター購入の
    計画を練り、フォークソング入門のため、詳しい同級生をつかま
    えるのです。

    当時どの高校でもフォークソングの流行がはじまっていた。
    ラジオはもちろん、テレビでも少しづつ紹介がはじまっていた。
    その時期と高校時代がシンクロした私たちは当然のように夢中に
    なっていったのです。

    そして今も「浜名湖フォークジャンボリー」の実行委員をしてい
    る。未だに浜名高校一年生の文化祭で見たあの熱を冷ますことが
    できない。

    ちなみに「NOWWHERE MAN」は邦題で「ひとりぼっちのあいつ」
    たくさんの仲間を得て、ひとりぼっちのあいつは少しづつ音楽を
    楽しみはじめた頃でした。


     

    桑と豚小屋とグラウンドと

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    現在は建て替えられて当時のグラウンドの位置に校舎が建ってい
    ます。
    昭和40年代も終わる頃、浜名高校に通う私たちは小林駅から至る
    北の門から校庭に入り昇降口に入りました。
    入学の頃、この門の角になんと豚小屋があり、あのエキゾチック
    ?な異臭がしていたことを覚えています。

    当時の学校の周りは今のように建て込んでおらず、広く桑畑が広
    がっていました。あの「お蚕さん」が食べる桑の木です。

    このグラウンドの道路をはさんだ反対側が当時も活躍していたサ
    ッカー部のグラウンドでした。
    サッカー部は朝練習をしていますからどんなに早く学校に着いて
    も練習が始まっています。
    当時のサッカー部は特待生のようなもので特別扱いです。

    入学式の後、学校が始まると、番号順で座る机の横に丸坊主で体
    が極端に大きな生徒が隣の席に座っています。
    座っているというより、机につっぷして寝ています。
    朝練で一時間目から既に疲れて眠っているのです。

    そしてまだ一年生当時はやらなかった早弁を一時間目終了と同時
    に始めるのです。(早弁とは昼前に弁当を食べることですよ)

    眠っている隣を見ても先生はちょっと大目に見ています。
    隣の席で教室に射す春のうららかな陽を浴びているとうつらうつ
    らとしてきますが、(まだまじめな)一年生は眠ることもなりま
    せん。

    桑の畑が広がっていたり、豚小屋の臭い、隣で眠るサッカー部と
    目新しいものが多いのんびりした一年生の頃でした。


     

    赤電の思い出

    カテゴリー │28回生room(S51.3卒)



    浜松方面から天竜方面から浜名高校へ通う生徒は遠州鉄道「通称
    赤電」の小林駅で降ります。学校から少し北にある小さな駅です。
    浜松から越境組はほとんどこの電車に乗って通学していました。

    当時の浜松は北へ北へと住宅地を伸ばしていましたから沿線には
    学生がたくさん住んでいます。そのほとんどが通学のため浜松中
    心部を目指して電車に乗ってきます。
    浜名高校生は逆に北への電車に乗るのです。

    私は今のクリエート浜松あたりにあった遠鉄浜松駅を利用して
    赤電に乗って通学しました。ここには現在のJR浜松駅に移転した
    バスロータリーがあり、多くの高校生が利用する駅でした。

    駅には当時浜松ではあまりなかった「駅ソバ」がありました。
    他高生たちと立ったまま湯気をあげるかけソバの濃い汁の味を
    覚えています。

    遠鉄浜松駅から小林駅までは30分程度の乗車時間であったと覚え
    ています。
    この駅でも数人が乗り、駅に着くごとに乗車する浜名高校生が増
    えていきます。越境組でも高校に近くなるごとに増えるのは当然、
    逆に小林駅に近づけば自転車通学が増えますから乗車は減るので
    す。

    今は高架が完成し、途中の駅の風情は変わりましたが、まだまだ
    自然が多かった当時は四季の田園の様子を見て過ごす通学時間で
    した。
    今でも電車に乗った当時の駅名とそのつながりを覚えていて土地
    勘が働きます。
    浜北に行けば同級生や同窓生の家がある土地名を覚えていて、な
    んとなく通行の得意感があるのです。

    辞書まで鞄に入れていた一年生時代が終わり、やがて私たちの鞄
    は薄くなっていきます。その薄い鞄を抱えて通った赤電の通学に
    もたくさんの思い出があります。
    浜松から小林駅までの赤電の旅、また辿ってみたいと思います。


     

    制靴はAPシューズ

    カテゴリー │28回生room(S51.3卒)



    中学三年、私たちは生まれて初めて「受験」の試練に立ち向かい
    ます。受験勉強といっても当時はラジオを聴き「ながら」勉強、
    それでも多くの同窓生と一緒に浜名高校に合格ができました。

    入学式前の制服や教科書、用具の販売会は体育館であったと覚え
    ています。あらかじめプリントされた用品を注文し、母と共に
    購入しに行ったのです。

    高校進学と共に「革靴」を履くのも楽しみの一つです。
    制靴の欄には確か写真のような「APシューズ」が決まりとあり
    サイズを書きます。その靴を体育館で合わせて買うのです。

    この靴は今思えば紳士靴の基本をしていますが、素直な1年生
    の間はこれを履きますが、オシャレに目覚める高校生には不満
    になります。

    先輩の足元を見れば「スリッポン」のカッコイイ靴を履いてい
    ます。二年生になればきっと買ってやろうと計画するのです。

    今ならば足元のオシャレなど個性に合わせて自由になっている
    のかもしれませんが、当時は「先輩に睨まれないかなあ」と
    思いながら導入したことを覚えています。

    二年生になって制靴をやめ、ちょっと自慢の靴を履いてゆく。
    まだ先生や先輩の目を気にしながら、少しづつオシャレな高校
    生を目指していったのです。

    28回生 一郎


     

    大ちゃん先生の想い出 28回生1年時

    カテゴリー │28回生room(S51.3卒)



    私たち第28回生(昭和51年3月卒)は今年54歳となります。大同窓
    会となれば思い出す恩師のことですね。

    入学式で体育館に並び、その並びはもうクラス分けがされています。
    門名校長のお話を聞き、閉会後にクラスへと並んで進みます。

    当時の後者は現在のものとは違い、三列になっていて一年生は最も
    南の棟となります。そこへ着いて出席番号順に並んで座ります。

    一年生の時の担任は「渥美先生」でした。

    髪はスポーツ刈り、眉毛が太く目がギョロリとしていて、一見怖そ
    うな先生でしたが、自己紹介で黒板に大書きした名前は「渥美留夫」
    、「留」は子沢山だからこれで終わりという意味なのだ。というお
    話を今でも覚えています。

    肇(はじめ)とか一郎が長男なら、留夫は末っ子だと言うのです。

    先生はその要望から密かに私たちに「大ちゃん」と親しく呼ばれて
    いました。
    一見怖そうに思えますが、私たち一人ひとりを心配してくれる「大
    ちゃん先生」でした。

    先生の上着の袖にいつもチョークの粉がついていた。
    授業も聞かず、ノートに「大ちゃん先生」の似顔絵などを描いてい
    た生徒は、懐かしく先生を思い出しています。

    お元気ですか「大ちゃん先生」

    28回生 一郎


     

    学生帽の頃 28回生

    カテゴリー │28回生room(S51.3卒)



    来年9月8日に開催する「浜名高校大同窓会」の幹事学年となった
    私たち28回生(昭和51年3月卒)が浜名高校で学んだ頃は、まだ
    制服に学生帽がありました。
    (最近は見なくなりましたね)

    当時の浜名高校の男子は一年生の間はなんと「丸刈り」であるこ
    とと校則にあり、中学校時代の丸刈りから開放されて他校に進学
    した仲間が髪を伸ばしはじめる中、私たちは未だに床屋さんでバ
    リカンのお世話になっていたのでした。

    高校一年生ともなれば男子もオシャレが気になります。
    髪を伸ばしはじめた他校生は制服に学帽があっても髪型が気にな
    りますからあまり被らなくなります。

    私たち浜名高校一年生は丸刈りですからむしろ学帽を被るほうが
    丸刈りを見られなくてすむなんて気持ちでいたことを思い出しま
    す。

    中学の仲間はさまざまな学校に進学し、通学途中の駅で再会しま
    す。するとまぶしいセーラー服を着た当時の憧れの女子が未だに
    学帽を被る私たちを面白げに注目するのです。

    「帽子とってみて」ちょっとからかわれます。

    私たちの頃から少しづつ学帽は被られなくなりました。
    待ちにまった二年生になり、先生に叱られながら髪を「長め」に
    伸ばします。

    学生帽は鞄の中に入ることとなり、被るのは校門あたりからとな
    ったのでした。
    もう今は見られない学生帽は私たちの思い出の中にあるのです。


     

    浜名高校28回生学年代表

    カテゴリー │28回生room(S51.3卒)



    来年2012年に創立100周年を迎える静岡県立浜名高校は同時に3年
    に一度の大同窓会の開催年となります。

    この幹事学年が27,28,29回生、毎週学年幹事会を開いて大同窓会
    の準備を進めています。
    11月12日(土)は28回中の学年幹事会を開催しました。

    28回生の幹事回で学年代表に選出されたのは「鈴木一充君」です。

    高校時代はインターハイ出場の陸上部で活躍したスプリンター。
    お仕事は(スプリンターを販売していた)ネッツトヨタ浜松 浜
    北店の店長さんです。
    まずは近況を知らせる写真を紹介しましょう。

    おいおい 角度が悪いぞ・・・頭が薄く見えるじゃないか・・・



    おいおい にやけているぞ・・・  注文が多いな~
    幹事会での会話はみな昔に戻っています。



    おいおい 注文通りの車持って来いよな・・・?

    大同窓会に向けての幹事学年の会議は毎週末開催しています。
    今週末19日(土19:00からは29回生の会議です。
    浜名高校南の尚友館にどなたもお集まりください。


     

    28回生11月度学年幹事会

    カテゴリー │28回生room(S51.3卒)



    来年2012年に創立100周年と三年毎の大同窓会を迎える静岡県立
    浜名高校同窓会大同窓会実行委員会は、現在実行委員づくりの
    ための打ち合わせを行っています。

    11月12日(土)は浜名高校尚友館の会議室があつい夜を迎えました。



    28回生(昭和50年度卒業生)の大同窓会実行委員会 クラス役員
    (学年幹事会)クラス幹事が5名以上も集まったクラスから、い
    つも孤軍奮闘している組の人からとさまざなながら、会議室の熱
    気は、11月も中旬だと云うのに、熱気に包まれています。

    来年の大同窓会を前に各クラスとも年末には同窓会が開催されそ
    うな雰囲気が生まれています。
    まずはクラスのまとまりから、そこから大同窓会への力が生まれ
    ます。



    今回の幹事会で、28回生の学年代表に鈴木一充君 副代表に大橋
    亮一君が選ばれました。

    今週土曜は29回生の幹事会が尚友館で19:00より開催となります。


     

    28回生37・38HRのクラス会の感想

    カテゴリー │28回生room(S51.3卒)



    おはようございます。浜名高校大同窓会実行委員会です。

    先日第28回生(S51年卒)の37・38回生の同窓会開催のお便りを
    いただいた小杉(町田)淳子さんから、当日の感想をいただき
    ましたのでご紹介いたします。

    高校を卒業し、早三十五年が過ぎてしまいました。今思うと
    あっという間でした。今年十七年振りに二クラス合同で、十月
    九日(日)浜北区のローランで、同窓会を開催しました。

    九十三人中、宛先不明で、戻ってきてしまったのが約二十通、
    これを何とか減らしたいと知っている人に聞いたりして、何
    とか半分に。
    結局参加した人は、二十三人でした。

    集まれば、当時の面影があり、顔を見るなり「〇〇ちゃん元気?」
    「高校の時と変わらないね」と、すぐ打ち解け、三十五年の月日
    を感じない程でした。

    とはいうものの、三十五年、前回の同窓会から十七年経っている
    こともあり、一人ひとりから、近況報告をしあいました。
    時の経つのも忘れるぐらい話が弾みました。

    最後は、次回の幹事を決め、「お互い元気でまた会おうね」と約
    束をし、会を閉じました。」

    来年九月には大同窓会が開催されます。次回はきっと大同窓会に
    集まり、先輩後輩とともにもっと大きな会となるといいなと思っ
    ています。



     

    28回生37・38HRのクラス会

    カテゴリー │28回生room(S51.3卒)



    みなさんこんにちは!第28回生(S51年卒)の37・38回生の小杉
    (町田)淳子です。

    先輩や同窓生に聞いて大同窓会を成功させたいとはじまりました
    大同窓会打ち合わせ会に参加しています。

    さて、私たち28回生37・38HR(家政科)のクラス会が、H23/10/9
    日に浜北区小松の「ローラン」で開催したしました。

    同級生っていいですね。すぐあの頃の制服の私たちに戻ることが
    できます。

    時間も忘れ、本当にゆっくりした時間を過ごしました。
    参加者も23人とほどよい人数となりました。

    私たちは来年の100周年と、大同窓会を応援しています。